1: 日本@名無史さん 2016/11/17(木) 05:37:15.20
出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。

記紀編纂者たちはおおよその実年を把握し、
2世紀初頭の倭国王師升がスサノオだと分っていたでしょう。

白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
ヤマト民族の始祖たるスサノオまでが生口160人を捧げて朝貢していた…

ものすごくみじめです。
自尊心がズタズタです。

彼らは古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、
時代を古く古くすることでごまかしました。


また記紀編纂者たちはスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代になることも分ってたでしょう。

だから記紀において神武東征をやたらクローズアップして、
卑弥呼であるヒメタタライスズ媛の記述をを最小限にとどめました。

そして神武をBC660年という遠い遠い過去に葬り去りました。
神武以降の天皇もそれに合わせました。

これが古代の天皇が100歳を超える日本の歴史の真相です。

70: 日本@名無史さん 2017/01/21(土) 18:29:14.17
>>1
捏造情報だから

71: ssn 2017/01/21(土) 20:24:56.43
>>70
硯の話が捏造って事なのか?

106: 日本@名無史さん 2017/01/29(日) 23:39:42.75
>>1

日本の歴史は奈良時代あたりからだよ
それ以前は妄想と作文の世界

107: 日本@名無史さん 2017/01/29(日) 23:41:31.83
>>1

70年前の南京虐殺や慰安婦問題もはっきり解らないのに1500年前のことなど妄想作文でしかない

123: 日本@名無史さん 2017/02/05(日) 20:52:04.14
>>1 トンスル東遷厨
>白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
>ヤマト民族の始祖たるスサノオまでが生口160人を捧げて朝貢していた…
>ものすごくみじめです。
>自尊心がズタズタです。
>彼らは古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、
>時代を古く古くすることでごまかしました。

根拠なし

要するに白村江(663)での敗戦がその契機になったという話だが
有名な

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す・・・」

でら隋の煬帝を激怒させたという小野妹子の遣使が607年

要するに白村江以前から「対等外交」の模索は始まってたわけだ

127: ssn 2017/02/06(月) 06:13:07.05
>>123
>要するに白村江以前から「対等外交」の模索は始まってたわけだ


そりゃ模索は始まってるさ。
だから何なのだ。

模索しようが何しようが、
2世紀3世紀に師升や卑弥呼が朝貢していた事実は変わらない。

白村江に負けたことでさらに劣等感が増しただろう。

おまえは何が言いたいのだ?

130: 日本@名無史さん 2017/02/06(月) 18:36:32.57
>>127 トンスル東遷厨(スカトロネタ大好きの変態荒らし)
>そりゃ模索は始まってるさ。
>だから何なのだ。

ん?そんなことも説明しなきゃ分からんのか?

少なくともお前のほざいてる
「白村江の敗戦が契機」
というような話には何ら必然性がないって話だよ

神武の橿原即位にしてもそれを古く潤色する動機は白村江以前にあったのだから

124: 日本@名無史さん 2017/02/05(日) 20:59:42.96
>>1 トンスル東遷厨(畿内説スレを荒し回ったクズ)
>出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
>弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
>記紀編纂者たちはおおよその実年を把握し、
>2世紀初頭の倭国王師升がスサノオだと分っていたでしょう。

これも意味不明

硯があったから
「2世紀以降の王統譜はおおよそ伝わっていただろう」
などは飛躍(ジャンプ)通り越してワープ

じゃあ仮に王統譜が伝わってたなら帥升をスサノオウという神様にする必要があったんだ?

スサノオウと言えば誰もが知るように岩戸隠れ神話の外せない重要キャラで
高天原を追われてからは今度はギリシア神話のアンドロメダを怪物から救った
ペルセウスの如き活躍を見せるもう神話の世界の住人以外の何物でもない

相変わらず一つのネタでトンデモレベルのこじ付けするなあ

128: ssn 2017/02/06(月) 06:15:18.85
>>124
だからその硯で何を書いてたのだ?

絵画、またはラブレターか?

おまえ本当に馬鹿だな。

131: 日本@名無史さん 2017/02/06(月) 18:46:36.34
>>128 トンスル東遷厨(コピペ荒らし、偽スレ荒らしなんでもござれの土器違い)
>だからその硯で何を書いてたのだ?

さあね
仮に当時文字を使う人間がいても
どれぐらいの語彙を使ってたのか?とか分からないからな

よしんば王統譜のようなものを書いてたとして
それがお前の言うような須佐之男に相当する人物を書いていた根拠がない
それが記紀編纂の時代まで伝わってたという根拠がない
そんな王統譜があるなら金石文の登場ももっと早かろうに

もし硯で実際に文字を書くために使ったとしたら
文字の普及した地域に当てた連絡をしたためるというのが蓋然性としては高いだろう
実際出てきた地域は大陸半島との通行に於いて先進的な地域だったのだから

137: ssn 2017/02/07(火) 08:58:35.07
>>131
>さあね

人の質問に対して「さあね」としか答えられないなら、
その後のお前の戯言はまったく意味がない。

129: ssn 2017/02/06(月) 06:19:21.79
>>124
>じゃあ仮に王統譜が伝わってたなら帥升をスサノオウという神様にする必要があったんだ?

「帥升をスサノオウという神様にする必要」でななくて、
記紀編纂者たちは、
国民に広く浸透してたスサノオが帥升であるととっくに気づいてたという話だが。

やっぱりアホだな、おまえ。

132: 日本@名無史さん 2017/02/06(月) 18:54:45.93
>>129 トンスル東遷厨
>記紀編纂者たちは、
>国民に広く浸透してたスサノオが帥升であるととっくに気づいてたという話だが。

で結局王統譜のようなものがありながらその
「国民に広く浸透してたスサノオ」を記紀に書いて

本来帥升にあたる人物をスサノオウに変えたって話だな

もっともそもそも民衆の伝承の中で
なんで帥升がスサノオウという神様になったのか?がまるで見えてこない話
仮に神話の雛形があってそれに習合したとしてもだ

結局いつもの「一代○年で遡って」で適当にそれっぽいのをチョイスしただけか?

138: ssn 2017/02/07(火) 09:03:08.52
>>132
>で結局王統譜のようなものがありながらその
>「国民に広く浸透してたスサノオ」を記紀に書いて
>本来帥升にあたる人物をスサノオウに変えたって話だな

おまえはアホなのか。
全く人の話が分かってないではないか。

スサノオは実在し、それが帥升だと気づいてたという話だ。
だから時代を大きくずらして神話の時代に追いやったという事だ。

133: 日本@名無史さん 2017/02/06(月) 19:17:42.83
で最後本題の
「なぜ古代天皇は100歳を超えるのか」
・・・だが

これは逆に
「記紀において百歳超えの天皇の記述が止むのはいつか?(及び生年自体が不明だったりするもの)」
を考えればヒントになる

それは昔から指摘されてるように雄略の一代前の安康天皇から

雄略をヤマト王権の変質、中央集権への志向の画期と見れば
それ以前は一つの王統ではなく複数の勢力から王を出してとと見れば

崇神以後恐らく三輪にヤマト王権の実態が現れた時代以後も百歳オーバーが出て来る説明がし易い

神武の時代を古くしたのは対外的な箔付(笑)けとして
安康より前が”間延び”したのは
連続した王統ではなく複数の王統でそのすべての記録がなかったか
あえて自分達に近い系譜のものだけを残したか

 ○=記紀に残った天皇(大王)、●=記紀に残らなかった大王

 ●●○●○○●●●○●・・・(安康天皇以後)○○○○○○

まあ以上は何も自分のオリジナルでも何でもないだろう
「記紀において百歳超えの天皇の記述が止むのはいつか?」
について考えれば誰でも思いつく話

ただ>>1トンスル東遷厨のような「一代○年で遡って」と当てはめごっこの好きなやつには
その遊びの前提条件が崩壊するので面白くもない話だろうが(代数が不明なら意味がない)

151: 日本@名無史さん 2017/03/03(金) 00:44:39.53
>>1
>.出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
>弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。

何だこの強引極まりない理屈?

電波さんなの?(笑)

153: 日本@名無史さん 2017/03/04(土) 03:36:17.32
>>151

だから硯で水墨画を描いてたのか?

何を書いてたのか聞いてるのだ。

文字があったとしか考えられないだろ。

154: 日本@名無史さん 2017/03/04(土) 03:53:54.67
>>153 トンスル東遷厨(ssn)

横だが
だからそれがなぜ

>記紀編纂者たちはおおよその実年を把握し、
>2世紀初頭の倭国王師升がスサノオだと分っていたでしょう。

まで飛躍するんだよアホw

必然性で考えれば文字を解する(半島大陸)相手とのやり取りだろうな

木簡でも出なきゃ実際に文字を使ってた根拠はないし
それで王統譜あるいはそれの元資料になるようなものを書いていた根拠がない
それがあったとしても記紀の時代にまで伝わってた根拠がない

病気レベルの妄想

156: 日本@名無史さん 2017/03/04(土) 04:53:32.60
>>154

>まで飛躍するんだよアホw

上の方で少し端折ったと書いている。
俺は文字があるなら干支もすでに導入されてたと思ってる。
原の辻遺跡では楽浪の遺物とともに出雲土器が出ていて、
古代出雲人が積極的に大陸の文化を摂取しようとしてた事が分る。


>木簡でも出なきゃ実際に文字を使ってた根拠はないし

三重の大城遺跡(2世紀前半)の土器の文字は?

158: 日本@名無史さん 2017/03/04(土) 05:22:01.46
>>156
墨書土器ぐらいじゃお前の言う王統譜を読み解けるだけの情報量がないだろうがよ

>>157
>その「どうなるんだ?」の意味が分からない。

お前の言うところの「格下げ」にしてないってことだ
比べりゃそれとなく分かるぐらいの内容
結局隠蔽したとするにも一貫性がない

帥升=須佐之男だっけ?
記紀編纂者が変えたんじゃなくて既に民間で変わってたって話だったか?

民間の伝承で変わるにしても須佐之男の何処に帥升の面影があるんだ?

結局代数からこじつけただけ

159: 日本@名無史さん 2017/03/04(土) 05:32:58.22
>>158
>墨書土器ぐらいじゃお前の言う王統譜を読み解けるだけの情報量がないだろうがよ

最初、「木簡でも出なきゃ実際に文字を使ってた根拠はないし」と言ってて、
大城の土器を出せば、
「墨書土器ぐらいじゃ」と変える。
なんでゴールポストをちょこちょこ動かすのだ?

>記紀編纂者が変えたんじゃなくて既に民間で変わってたって話だったか?

意味が分からない。
質問なのか反論なのか何なんだそれ。

>結局代数からこじつけただけ

代数が合うのは有力な証拠だろ。


ところでおまえって記紀は無視してたくせに、
何で突然、自分は昔から記紀を無視していなかったような反論をしてくるのかな?

161: 日本@名無史さん 2017/03/04(土) 06:56:50.28
>>159 トンスル東遷厨(ssn)
こっちが言ったのは木簡
木簡なら1本でもある程度の字数は見込めるからな
何も要求を変えてない
流石に墨書土器ぐらいは予備知識にあるわ

更にそこから王統譜の・ようなものがあった根拠
記紀の時代にまで伝わってた根拠も聞いてるが?

硯があった→記紀の時代に自分の言う王統譜が伝わってた

とかどんだけ電波飛ばすんだよアホが

結局、須佐之男と帥升の類似なんて示せない
代数だけとかいくらなんでも馬鹿そのもの

変化したならしたでその変遷やどうしてそのような変化をしたかの理由付けも何もない

>ところでおまえって記紀は無視してたくせに、

意味不明
無視した覚えはない
ただ史実解明に使える部分と使えない部分の峻別を厳にせよ言ってるだけ

「 あ て は め ご っ こ に 意 味 は な い 」

162: 日本@名無史さん 2017/03/04(土) 08:35:00.30
>>161
>こっちが言ったのは木簡

木という有機物が残ってないから何なのかな?
それより硯で何を書いたのか答えろ。

>結局、須佐之男と帥升の類似なんて示せない
代数だけとかいくらなんでも馬鹿そのもの


代数が合うのは証拠だ。

165: 日本@名無史さん 2017/03/10(金) 20:03:14.68
以下このスレの>>1ことトンスル東遷厨(ヤフーでの通名はssnらしい)の
畿内説スレに書き込んだ与太に対するレス

畿内説スレはもう早けりゃ今晩中に1000達しそうなんでこっちに書いておく
どの道アホの>>1トンスル爺はどこでも言ってる内容は同じようなものなので問題なかろうw

2: 1 2016/11/17(木) 05:38:36.92
本文が長くなり過ぎたので

PS

纏向遺跡は「筑紫、吉備、讃岐、播磨の要素(寺沢薫)」ですから、
九州~瀬戸内勢力をともなってヤマト入りしたニギハヤヒ(物部集団)の遺跡でしょう。
桜井市には物部氏の痕跡が無視できないほど多数存在します。

あんなところに卑弥呼はいません。

邪馬台国とはヒメタタライスズ媛のお住まいになられた奈良県御所市です。

3: 日本@名無史さん 2016/11/17(木) 05:41:55.01
何が言いたいのかよくわからない

4: 日本@名無史さん 2016/11/17(木) 05:56:16.98
>>3

理解できないのは君の問題なんで知らん

5: 日本@名無史さん 2016/11/17(木) 06:03:13.80
弥生時代の硯が発見されたことと、
記紀の編纂者が考えていたであろうことと、
白村江の話と全然関係ない時代の生口の話と、
天皇の年齢が長寿なことと、
卑弥呼の居場所と、

これらに何の関係があるのか、論理的に説明してほしい
私には理解できない

6: 日本@名無史さん 2016/11/17(木) 07:13:40.51
>>5
はい、ちょっと本文を端折りすぎました。

硯の発見で2世紀以降の王統譜はおおよそ伝わっていただろう、
それならスサノオの実年も把握してたであろう、
それが師升であることもわかってただろう、
ならばスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代であることも分かり、
記紀編纂者たちは卑弥呼が誰かも分っていただろう

という事です。

纏向遺跡の部分は箸墓が卑弥呼の墓で決まりのような風潮があるので、
それは違うだろうという私の個人的意見です。

13: 日本@名無史さん 2016/11/18(金) 02:06:11.62
>>6
>硯の発見で2世紀以降の王統譜はおおよそ伝わっていただろう、

硯が存在したからといって、なぜ「2世紀以降の王統譜」とやらが存在することになるのか?

>それならスサノオの実年も把握してたであろう、
>それが師升であることもわかってただろう、

師升=スサノオの証明がされていないので、この推測に意味は無い

>ならばスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代であることも分かり、
>記紀編纂者たちは卑弥呼が誰かも分っていただろう

これも同じ

14: 日本@名無史さん 2016/11/18(金) 02:14:09.90
>>13
では硯で何を書いてたと思うのか?

15: 日本@名無史さん 2016/11/18(金) 03:32:44.53
>>14
実際に書かれた文字が出土していないので不明だが、
もちろん何らかの文書であったと推測できる

しかし弥生時代に筆記がなされていた可能性から、
「2世紀以降の王統譜」が存在していたことを推測するのは
飛躍がありすぎる

21: 日本@名無史さん 2016/11/21(月) 07:03:09.81
>>18
その質問の答えは >>15 に書いた

出ないから「ない」とは言えない。その通りだ。私も無いとは言っていない
ただ、なぜあると推測したのか、その根拠が聞きたかっただけだ
「ない」とは言えないから、あったに違いない、というだけのことなら、
あまり話を聞いても意味はなさそうだ

23: 日本@名無史さん 2016/11/21(月) 22:42:00.96
>>21
>その質問の答えは >>15 に書いた

ということは「何らかの文書であったと推測できる」ということだな?

その文書が「公」なのか「私」なのかと言えば当然「公」だろうね。
俺はそれを言ってるのだが。
その「公」とは当然王統に関わるものだと思うのだが。

25: 日本@名無史さん 2016/11/22(火) 02:28:30.50
>>23
文書というのは広義の意味で書いた
おそらく何らかの情報、文字を書いたのであって
お絵描きをしたのではなかろうという意味
名前を書いたのかもしれないし、随筆を書いたのかもしれない

公か私か、という点についてはあまり興味が無い
できれば >>6 の根拠を聞かせて欲しい
私はそう >>13 で書いたつもりなのだが、
質問に質問で返されたので、残念な思いをしている

26: 日本@名無史さん 2016/11/22(火) 08:20:08.80
>>25
>できれば>>6の根拠を聞かせて欲しい

>>6のどの部分の根拠?

16: 日本@名無史さん 2016/11/18(金) 04:53:21.20
>>14
何らかの文書を書けるのなら王統に関して書くだろう。
それがまず一番ではないか。
それ以外にあるというなら、たとえば随筆でも書いてたっていうのか?

17: 日本@名無史さん 2016/11/18(金) 07:01:37.77
>>16
もし随筆だったら王統譜より興味深いが、残念ながらそれは無いだろう

王統について書き遺すようなレベルの文化であれば、当時なら金石文の形で
実現しようとするのではないか。弥生期にはそれを可能にする技術があった
のではないかと思うが、出土していないので、今のところ王統など無かったか、
興味が無かったのではないかと考える。反証などがあれば指摘して欲しい

18: 日本@名無史さん 2016/11/18(金) 10:37:49.48
>>17
というか、それなら硯で墨を磨って何を書いてたのか?という質問に戻るわけだが。
5世紀には倭王武の上表分のような優れた漢字文化があったが金石文は日本で出ない。
つまり出ないから「ない」とは言えない。

8: 日本@名無史さん 2016/11/17(木) 12:05:43.30
箸墓の埋葬者が孝霊天皇の皇女でその人物が卑弥呼で
卑弥呼と同時代の天皇が崇神天皇かというとやっぱり
違うのではと思う。孝霊天皇の即位年は「辛未」とされ、
これは崇神天皇が卑弥呼の時代の人物なら191年、
卑弥呼より後の西暦300年頃の人物なら251年
だけど、孝霊は景行天皇の皇后、播磨稲日大郎姫の
祖父とされ(したがって日本武尊はひ孫、仲哀天皇は
玄孫に当たる。播磨稲日大郎姫が景行の曽祖父の従妹
というのは不自然)、日本武尊と年齢が近く景行~仁徳
の五代に仕えた武内宿禰が孝霊の玄孫であり仁徳天皇の
皇后磐之媛の祖父であることから、孝霊の即位年は仁徳の
時代から逆推測して191年よりも251年に近く、
倭迹迹日百襲姫命も卑弥呼の死後に誕生した可能性が高い
と思うんだよな。

継体天皇が応神天皇から五世代目というのは十分ありえても
神武天皇から応神天皇までは父子継承が順調に続いてるので
はなく同世代の天皇がかなり混在してそうなんだよね。
やはり歴史を古くするためなのか。

9: 日本@名無史さん 2016/11/17(木) 12:34:55.85
>>8
>倭迹迹日百襲姫命も卑弥呼の死後に誕生した可能性が高い
と思うんだよな。

賛成。

>神武天皇から応神天皇までは父子継承が順調に続いてるので
はなく同世代の天皇がかなり混在してそうなんだよね。
やはり歴史を古くするためなのか。

その通り。
実際には崇神から神武まで6世代。
中臣、物部、三上祝、鴨の相関系図で分かる。
明治に中田憲信が「諸系譜」で解明した。

なぜかひっかかるのでリンク貼れない。

中田憲信「諸系譜」で検索してみて。

10: 日本@名無史さん 2016/11/17(木) 12:43:11.17
命≒屋号乃至王朝で襲名説を採って居たが違うって言われた(´・ω・`)

11: 日本@名無史さん 2016/11/17(木) 12:49:12.75
漢字が硯筆より先に出来たって発想からして先ず頭悪いよね

北方の甲骨文字群と南方の象形文字群とが
漢朝辺りから大系として編纂される様になったんで在って
毛筆は既に在ってそのプロセスに於いて木竹簡への記載のし易さから官僚の用いる筆記具の主流になったに過ぎない

12: 日本@名無史さん 2016/11/17(木) 14:54:07.68
原の辻遺跡では楽浪の文物とともに出雲土器が見つかっている。
古代出雲人は積極的に楽浪人に接触し文化を吸収したのだろう。
つまり漢字どころか干支まで知っていた可能性がある。
いやそう考えてもよいはずだ。

19: 日本@名無史さん 2016/11/19(土) 15:17:29.49
2世紀前半の三重の大城遺跡出土土器に書かれた文字は「奉」または「垂」らしい。
地方都市にまで難しい字が来ていた。
とはいえ、この字は首長のエンブレムのように使われたのかもしれない。
しかしそれであったとしても王統は伝達できる。

20: 日本@名無史さん 2016/11/20(日) 20:25:18.31
8世紀の神社の祭神の書き換えが
歴史学的には大ダメージだな。
ほとほとヤマト政権の捏造書き換え
焚書には悩まされる。
それがなくば明治以後の大暴走も
なかっただろう。

22: 日本@名無史さん 2016/11/21(月) 10:33:26.02
「日本に伝えた」とする朝鮮半島で山ほどの文字が出ていて、日本では出ていない
ならば、「なかった」ことでもいいが。
朝鮮半島のその時代の遺跡から文字が山のように出ている事実はあるのかな?

24: 日本@名無史さん 2016/11/21(月) 22:48:34.26
三輪 氏   安曇氏  物部氏    三上氏   忌部氏    紀国造家   久米氏  大伴氏 中臣氏  皇室  

櫛御 方   穂己都久 宇摩志麻治 彦伊賀都   天富        天道根   大久米     道臣 天種子  1神武
健飯 勝   摩幣区利 彦湯支    天夷沙比止 彌麻爾支     伊麻枳利 布理祢     味日 宇佐津臣2綏靖3安寧
健甕 尻   意伎布根 意冨祢    川枯彦     和謌富奴     比古麻   味耳       稚日 御食津臣4懿徳
豊御 食主  小栲梨   出石心大臣 . 坂戸毘古   佐久耳       知名曽   五十真手   大日 伊賀津臣5孝昭6孝安
健飯 賀田巣麻曽杵   大綜麻杵   . 国忍富     阿加佐古   .久志多麻 久米大人  角日 梨津臣  7孝霊8孝元9開化
大 田々根子大栲成吹 伊香色男.  .大加賀美   玉久志古    大名草彦 押志岐毘古 豊日 神耳勝  10崇神
大御 食持  百足足尼 十市根    鳥鳴海    多良斯富   .宇遅比古 七拳脛    武日 大鹿島  11垂仁12景行
大友 主   勝海足尼 胆咋       八倉田    麻豆奴美足尼 等与美々 祢久良支   武以 臣狭山  13成務14仲哀
志多 留   大浜    .五十琴    室毘古    佐岐大人足尼 豊布流   伊与足尼  佐彦 雷大臣  15応神
石床      浜子    .伊呂弗    比賀多    多比古足尼   塩籠    加志古     山前 大小橋  16仁徳

86: 41-42 2017/01/24(火) 00:28:00.44
>>85
スレ主の主張と>>24の豪族系譜との比較により
神武(卑弥呼の時代)~崇神までを6世代、仁徳までを10世代
とすると、仲哀天皇が340~350年代の誕生で380年頃に応神天皇
を残して亡くなったとして特に問題ないと思われる。

継体天皇の誕生年を485年とすると、5世代前の応神天皇の誕生年
は362年頃もありうるが、380年であっても一世代21年で子供を作
ればちょうど105年差になるのでありえない話でもない。

崇神天皇崩御から成務天皇崩御まで37年(319年~355年)を
入れ込むか39年(332年?~370年?)を入れ込むかあまり大差ない。

仲哀はとりあえず崇神の孫世代と考えている。
記紀通り仲哀は崇神の玄孫だというなら崇神の没年を318年にすると
仲哀の没年を380年以降に持ってこないと不自然。362年52歳没だと
崇神の存命中の誕生になる。崇神天皇はよほどの長生きだったのか。
仲哀天皇は52歳でなくもっと若い年齢で亡くなったに違いない。

115: 日本@名無史さん 2017/02/03(金) 07:55:00.93
>>86
仲哀は若くで死んだのに賛同する。
古代の天皇の子女の数は、天皇が長寿であれば多くなり、后妃が多ければ多い。
古代でなく中世も近世も同じだ。武家でも同じ。
信長も家康も子女は多い。
40~50歳まで生きたら子女はもっと多いはずだ。
数人しか残さなかったということは、30歳前後で死んでしまったのだろう。

28: 日本@名無史さん 2016/12/11(日) 08:33:34.53
ふつーに春分秋分で2才
古代中国人もギリシャ人もオリエント人もユダヤ人も異常に長寿
孔子の「50にして立つ」など平均寿命越えたじじいになってようやく立つとか
あり得ない
弟子の顔回も40と言う平均的な寿命で夭折とかも不審

29: 日本@名無史さん 2016/12/11(日) 09:15:12.85
30にして立つ
50にして天命を知る だぞ

30: 日本@名無史さん 2016/12/11(日) 12:43:14.46
すまんそうだったかw

しかし30でも同じだ。古代中国の平均寿命が35~50と言われている
時代だからね。

31: 日本@名無史さん 2016/12/11(日) 13:11:53.20
二倍暦だったからかもしれないし、単に盛っただけかもしれないし
旧約聖書の創世記なんかでもノアあたりまでは寿命がすごく長いし、
(この部分に至っては、神様が人間に絶望して寿命が減ったことになってる)
シュメールの王名表なんかでも寿命が長かったりおかしげな(実在を疑うような)名前があったりするし

32: 日本@名無史さん 2016/12/13(火) 23:14:33.52
在位が60年以上の天皇は60年盛っている
これは古事記や百済記との比較で確認できる

更に、魏志の記事から二倍暦を採用した事も推測できる(百済記も二倍暦という事になる)

以上の修正をすると卑弥呼の時代は天照とすっぽり重なる

34: 日本@名無史さん 2016/12/16(金) 08:04:03.57
>>32
>以上の修正をすると卑弥呼の時代は天照とすっぽり重なる

いや無理だ。w
アマテラスを卑弥呼の時代に持ってこれない。

>>33が事実。

33: 日本@名無史さん 2016/12/16(金) 08:01:15.00
崇神(4世紀初頭)





神武・ヒメタタライスズ(卑弥呼)(2世紀末~3世紀初頭)




スサノオ=師升(2世紀初頭)

(・は一世代20年)

スサノオ=師升は生口160人を献じ、謁見を申し出たが朝貢に失敗しているようだ。
金印をもらえなかった。
この恥ずかしい過去を隠すにはヒメタタライスズ(卑弥呼)と神武の時代も隠さねばならない。
ここを基点にすればスサノオ=師升だと分ってしまう。
だから神功皇后を干支を120年ずらしてまで強引に卑弥呼の時代に持ってきて卑弥呼を隠した。

だから100歳超える天皇の記述になった。

そういう事だ。

35: 日本@名無史さん 2016/12/17(土) 02:07:22.01
確かに神武天皇と崇神天皇の間に
8人の天皇が実在したとすれば少なくとも
合計在位年数80数年~100年間ぐらい
と見積もって良いんじゃなかろうか。

卑弥呼の後に神武天皇が即位したとなると
天皇一代あたりぎゅうぎゅう詰めという感じ。
卑弥呼の時代にアマテラスがいてその5世代後が
初代天皇だとすれば、神武天皇より崇神天皇をも
ってきたほうが自然。

37: 日本@名無史さん 2016/12/18(日) 08:48:39.54
>>35
>卑弥呼の後に神武天皇が即位した

いや違うって。
神武は実在しただろうが、記紀で大きく誇張された存在。
大和のヒメ様に通い婚を許されただけのたわいない男。

権力比重ではヒメ(ヒメタタライスズ媛)80対神武20くらいだろう。

記紀では卑弥呼=ヒメタタライスズを悟られないために、
神武東征をことさら誇張した。

その結果、誰も初代皇后のお名前を知らないようになった。

36: 35 2016/12/17(土) 02:50:34.43
神武~崇神の10人の天皇じゃなくて
綏靖~開化の8人の天皇の在位年数の合計がそれぐらいってことね。

神武~開化まで親子継承が順調だったら、日本書紀なら
神武・孝昭・孝安・孝霊から60年ずつ差し引いて
その他に二倍歴を適用すればだいたい210年ぐらいになるか。

38: 35 2016/12/19(月) 01:28:35.52
ふ~ん、東征は創作の可能性ありか。
じゃあ、神武は卑弥呼より先に死んで
卑弥呼ことヒメタタライスズヒメは孫
ぐらいの世代の天皇のときまで生きていた
と考えてるでOK?
崇神天皇即位が4世紀初頭のいつかが
やや不確定だが、それまで天皇一代十数年
は在位したと見ないとなー。

で、もう一つ気になるんだが卑弥呼の死後に
女王になった台与は誰がモデルなんだろう。
彼女もヒメタタライスズヒメの親族かな?

39: 日本@名無史さん 2016/12/19(月) 17:35:39.17
>>38
>卑弥呼ことヒメタタライスズヒメは孫
ぐらいの世代の天皇のときまで生きていた
と考えてるでOK?

その通り。
安寧天皇の時代まで生きてたと思う。
ヒメがお婆ちゃんで孫の安寧がヒコだね。

>卑弥呼の死後に
女王になった台与は誰がモデルなんだろう。

4代懿徳の皇后・天豊津媛命だろうね。

40: 日本@名無史さん 2016/12/20(火) 06:55:08.52
畿内説では邪馬台国は銅鐸国となる。

なぜなら「其の国」は2世紀前半から存在してるからだ。
畿内で鏡は3世紀からだからな。
それ以前は銅鐸だ。

ということは卑弥呼は銅鐸族から出たという事でいいな?

では銅鐸族とは誰か。

出雲系カモ族だ。
カモからヒミコが出たのだ。

ヒミコとは誰か?

ヒメタタライスズ媛だ。

このヒメ様の元に、日向から来たイワレヒコ(神武)という男が通い婚を申し出た。

41: 日本@名無史さん 2017/01/07(土) 18:11:20.87
古代天皇の誕生年を推測。±10年ぐらいの誤差はあるかも。

1世代目 スサノオ(1世紀半ば生)




6世代目 卑弥呼(175年頃生まれ)・神武(?)
7世代目 綏靖・安寧(190年代~200年頃生)
8世代目 懿徳(220年代生?)・台与(235年頃生)
9世代目 孝昭・孝安(250年代生?)
10世代目 孝霊・孝元・開化(270年代生?)
11世代目 崇神(290年代生?)
12世代目 垂仁・景行(310~320年代生?)
13世代目 成務・仲哀(340~350年代生?)
14世代目 応神(380年頃生?)
15世代目 仁徳(400年頃生?)

42: 日本@名無史さん 2017/01/07(土) 18:19:52.56
16世代目 履中・反正・允恭(420~430年頃生?)
17世代目 安康・雄略(455~460年頃生?)
18世代目 清寧(?)・顕宗・仁賢(470年代生?)
19世代目 武烈(510年頃生?)・継体(485年頃生)
20世代目 安閑・宣化(501、502年頃生?)・欽明(525年頃生?)
21世代目 敏達(547年頃生?)・用明(549年頃生?)・推古(554年生)・崇峻(560年頃?)
22世代目 押坂彦大兄皇子(565~570年頃生?)・厩戸皇子(574年生)
23世代目 舒明(593年生)
24世代目 皇極(斉明)・孝徳(601~605年頃生?)・天智(626年)・天武(630年代生?)

43: 日本@名無史さん 2017/01/07(土) 18:31:16.00
卑弥呼から天智・天武まで19世代と見なしてよいのではなかろうか。
実際の皇室系図の世代間隔は平安~戦国期頃とあまり変わらない。

4世紀~6世紀初めでも各天皇が活躍していたと推測される年代が
日本書紀と大きくずれている。古事記ともややずれている。

44: 日本@名無史さん 2017/01/07(土) 18:57:23.43
✕平安~戦国期頃
正確には10~16世紀だな。平安時代でも桓武天皇から後三条天皇
まで11世代で300歳近い年齢差がある。ところが後三条天皇から
北朝の崇光天皇まで14世代だがちょうど300歳差。系図のいろん
な部分で区切ってみると13世代で300歳差になるところが多そうだ。

45: 日本@名無史さん 2017/01/08(日) 09:43:14.25
老臣の武内宿禰なんて三百歳前後
二倍暦でも使ってたんかなぁ

46: 日本@名無史さん 2017/01/08(日) 20:06:08.57
300もいかんよ。
せいぜい75歳。

47: 日本@名無史さん 2017/01/08(日) 21:53:13.73
四倍暦か

48: 41-42 2017/01/09(月) 05:36:16.33
神武天皇の誕生年は分からないが、神武には東征のとき
既に吾平津姫との間に長男が(古事記では次男も)いたとされる。
ヒメタタライスズヒメは神武からすると娘ぐらいの年齢の女性で、
綏靖は神武35~40歳ごろの子だった可能性もある。

安寧天皇が2世代目なのか3世代目なのか微妙。

日本書紀では天豊津媛命は神武とヒメタタライスズヒメ
との間の玄孫だが、ここでは台与を卑弥呼の孫とした。
早く生まれたひ孫かもしれない。それが一世代上の懿徳
の妻となった可能性もある。

崇神天皇は即位してまもなく二人の皇女に倭大国魂神と
天照大神を祀らせた記事などから、即位当時30代に達していた
と思われる。垂仁紀には崇神天皇が短命であったという記述がある。
それ以降の天皇もあまり長生きではなく30代や40代で亡くなった
人物がたくさんいたと思われる。

日本書紀では允恭天皇の在位年数は42年と長く、その間に皇子皇女が
生まれたとされるが、皇子・皇女の約半分は即位前に生れていたのでは
なかろうか。在位年数もそんなに長かったとは考えられない。

継体天皇の誕生年は日本書紀の450年より古事記の485年のほうが真実味
があるのでこれを採用した。当時の天皇は允恭…、いや雄略ではなかろうか。
これより少し前、480年ごろ雄略は顕宗・仁賢の二人の父、市辺押磐皇子を暗殺
した。そこで顕宗・仁賢の兄弟は470年過ぎ生まれ、仁賢の皇女、手白香皇女、
橘皇女、武烈は505~510年の間の生まれ、継体と手白香の間の欽明天皇は
継体が大和に入ったころの誕生で、継体が531年(一説に534年)ごろ亡くなった
ときまだ幼児だったのではなかろうか。

49: 41-42 2017/01/09(月) 05:40:00.80
推古天皇・舒明天皇・天智天皇の誕生年は通説どおりとした。
雄略から欽明までの天皇は通説よりもかなり後に生れたに違いない。
敏達天皇とその曽孫の皇極・孝徳も通説より十年ほど
遅く生まれたのではなかろうか。皇極が天智を33歳で産むよりも20代で産む
ほうが現実味がある。天武を産んだとき30代の可能性はある。

系図の世代はあくまで男系中心に数えているので、実際には叔父と姪の
婚姻関係もあるから、男系では継体→欽明→敏達→押坂彦人大兄皇子→
舒明→天智→持統の7世代(1世代26.7年)でも数え方次第では、継体→
宣化→石姫皇女→敏達→押坂彦人大兄皇子→茅渟王→皇極→天智→持統
で9世代(1世代20年)となる。

50: 日本@名無史さん 2017/01/10(火) 21:08:02.78
>>41-42

スレ主です。
素晴らしい。
もひとつ倭国王師升=スサノオだろうね。
記紀編纂者が一番隠したかった事だろう。
日本は中華の属国であった。
スサノオ=師升までもが朝貢してた。

記紀を読む未来の日本人のためにも、
こんなぶざまな歴史は隠さねばならない。

そして時代を大きく古くずらした。
その結果が100歳超える天皇になった。

これで間違いないでしょう。

51: 日本@名無史さん 2017/01/12(木) 16:09:22.45
日本は3世紀後半台頭した鮮卑族北魏のパクリ
皇祖神=黄帝、天照大御神
初代皇帝=成皇帝、神武天皇
欠史=節皇帝~聖武皇帝、綏靖天皇~開化天皇
始祖=神元皇帝、崇神天皇
建国者=道武皇帝、天武天皇以降が前身の代国、倭国の大王を皇帝、天皇に追尊しまくるw

52: 日本@名無史さん 2017/01/12(木) 22:06:52.57
ヒミコ≒大倭日女命(大女王を意味する/また、竹野(タカノ)媛命)(6世孫世代)は孝安天皇(当時は弱小領主程度)の義理の姉。
その子孫らがいわゆる和邇氏(和邇氏の祖の世代)。
トヨはヒミコの兄の孫世代。八世孫世代。天豊媛命。同じく大倭日女命。竹野媛命。
確か、、、開化天皇の后さま。

スサノオとは後の天皇(亀)が最大庇護を受け歴代姻戚関係をたやさなかった本宗の大王家と王族(浦島太郎)の概念上の存在。

時が満ち、いよいよ力を着けおとなしく偽装していた亀がガメラに豹変して浦島太郎らを撃滅
(崇神、垂仁)

決死八世代の真っ只中がヒミコら先天の王権の時代ゆえに後の天皇家や朝廷らが記述が憚られた

54: 日本@名無史さん 2017/01/13(金) 15:12:23.98
>>52
それ曲学さんと同じ説かな?
でも時代が合わない。

55: YAP? 2017/01/18(水) 21:27:40.94
この掲示板に書き込むつもりですが、まだ過去の投稿を全部見ていないので、とりあえず、あいさつ代わりに。
 古代天皇の年齢が100歳を超えるのは、現行太陰太陽暦の1年を、2年(以上‽)と据え烏、独自の和暦(倭暦)が存在したことが一つ、もう一つは、
もう一つは、過去の大王家が、中国に朝貢し、その権威により、国内を支配していた、という事実を
隠蔽する為に、神武即位をォオh場に過去に遡及させた為。

 尚、私は記紀では神代と人代を明確に区分しているので、スサノヲのような
「神格」とされた存在は、実在の大王ではありえないと考えている。
 従って、帥升ハスサノヲではありえない。

59: ssn 2017/01/19(木) 02:12:37.51
>>55

これはこれはさっそく書き込みどうもですw
私も名前入れますね。

> 尚、私は記紀では神代と人代を明確に区分しているので、スサノヲのような
「神格」とされた存在は、実在の大王ではありえないと考えている。
 従って、帥升ハスサノヲではありえない。


自分は逆に、充分、人代と認識してたスサノオを、
遠く神代に追いやる必要があったと考えてます。

スサノオが師升だと分っていたからこそ、
やはりそれは書けなかった。

国民にとってスーパースターであった人物の朝貢、
白村江の敗戦時、これはあまりに辛く、
やはり書けなかったであろうと思ってます。

それゆえ、時代を大きくずらした。
こういう事だと思ってます。

62: ssn 2017/01/19(木) 20:43:03.47
>>55
それはそうと、その「YAP?」という名前、hnさんでしたか。

いや、2ちゃんに来た10年位前、いやもっと前かな、
そのハンドルネームを見たことあります。

そうですか、そうですか…

56: 日本@名無史さん 2017/01/18(水) 21:39:06.09
妄想は書き込まなくていいよ

57: YAP? 2017/01/18(水) 23:02:21.96
NO.32で、倍暦支持者がいたが、どうも安本美典氏の説に近い印象を受けた。他にも古田武彦氏も、倍暦論者だ。
私は邪馬台国近畿説の立場なので二人とは意見が異なるが、『日本書紀』などに
倍暦の根拠が明記されているので、『魏志倭人伝』の記述とも矛盾がないから、倍暦が存在したと考えている。

 『日本書紀』敏達紀と欽明紀の、立太子記事、『古事記』と『日本書紀』の継体天皇の寿命等、継体欽明皇統の時代でも
倍暦が行われていた可能性は強い.おそらく推古天皇の時代までは、倍暦は行われていたのだろう。

58: 日本@名無史さん 2017/01/19(木) 01:58:57.85
倍暦はご都合主義

60: 日本@名無史さん 2017/01/19(木) 05:21:40.98
つじつま合わせるため

61: 日本@名無史さん 2017/01/19(木) 20:06:33.23
もしかしたら今上陛下は100歳どころか新和も含めた歴代天皇のうち最長寿になるかもしれない。

65: 日本@名無史さん 2017/01/20(金) 23:29:33.03
>>61
日本書紀編纂前は推古天皇の75歳が最長寿で、たぶんその年齢まで
生きたことに推古本人が驚いたかもしれないが、その後古代天皇の
寿命が水増しされたことで白河天皇や後水尾天皇も自分が最長寿の
天皇になったことに気づかなかったんだろうな。
さすがに昭和天皇は自分が最長寿じゃないかなと思っていたかも。

>>64
倍歴はなあ…。ある部分は3倍、4倍ぐらいにしないと2倍じゃ
ちょっと長いんじゃないの。日本武尊の年齢とかそのまま30歳でOK
でしょう?神功皇后が100歳まで生きたというのはちょっと信じがたいが
31歳で応神天皇を産んだは信じていいのでは?それとも16歳とか?

69: 日本@名無史さん 2017/01/21(土) 10:53:32.66
>>65
神武天皇が127歳だが今上はそれ位は超えそうだな

63: 日本@名無史さん 2017/01/20(金) 22:20:10.61
2世紀初頭 帥升=スサノヲ
3世紀前半 7代目大国主⇒事代主, 卑弥呼=天照
3世紀後半 神武、大和南部に居住
5世紀初頭 崇神、纏向に進出、邪馬台国勢力を伊勢に移転
賛=垂仁
珍=忍熊or神功
済=応神
興=仁徳
武=履中&允恭

64: YAP? 2017/01/20(金) 23:01:56.23
 YAP?というのは2ch専用の私のHNで,ssnさんのお察しの通りです。
 ここ数年書き込んでいないので、誰か他の人が使用されていたかもしれませんが。

 倍暦について、ご都合主義との批判がありますので、とりあえず、反論を先にします。

66: YAP? 2017/01/20(金) 23:39:23.72
 倍暦の根拠
 ①敏達天皇の立太子時期
 『日本書紀』欽明紀:欽明天皇15年春正月戊子の朔木上午(7日)に
後の敏達天皇を、皇太子にした
『日本書紀』敏達紀:欽明天皇二十九年皇太子になる
 ②継体天皇の没年
 『日本書紀』継体紀:継体天皇春2月丁未(7日)死亡、82歳
 『古事記』継体記:43歳((丁未年4月9日脂肪)
 ところで、継体天皇の治世を、百済系史料では25年ではなく、28年としている。
 で、継体紀の82歳に3年足せば、85歳となり、継体記の43歳の倍数となる

 後仏教公伝の時期の2説、338年と552年説のずれも、じてゃ倍暦からの換算ミスで説明可能だが、
これは、継体没後の安閑・宣化朝と欽明朝の二王朝並立問題とも絡み、ややこしいので、省いたが、
元興寺露盤銘や聖徳太子即位説とかとも関連し、説明が面倒になるので省いたガ、
これも倍暦の根拠になり得る。

 いずれも、記紀の近現代史とも言うべき、継体欽明朝の話だ。
従って、倍暦、元嘉暦、干支などが、儀鳳暦中心に切り替わるのは、推古天皇の次代になる。

67: ssn 2017/01/21(土) 03:42:16.69
>>66
倍歴の話になると私にはチンプンカンプンなのですが、
一方で、崇神を4世紀初頭~前半と言っておられましたね。

これには大賛成です。

でも「崇神=4世紀初頭~前半」を倍歴で説明はできないと思うのですがいかがでしょう?

68: 日本@名無史さん 2017/01/21(土) 08:28:38.19
継体欽明紀の記載ミスを根拠にされてもねえ
邪馬台国以来倍暦だった根拠はないんかい

72: 日本@名無史さん 2017/01/21(土) 20:59:49.68
ある部分は倍歴が当てはまりそうなところもあり
ある部分は思い切り60年を上乗せ、つまり干支は合うように
在位年数に手を加えているんじゃないかな。

仁徳天皇の場合、在位年数87年より在位年数27年のほうが
もっともらしそうだし、崇神天皇も4世紀初頭の天皇だとすると、
日本書紀の干支だけが正しいとして在位前97年~前30年(68年間)
を在位324年~331年(8年間)に変えればいいんじゃないかな。

神武天皇が亡くなった後、長男のタギシミミがヒメタタライスズヒメ
を娶った話が古事記にあるので、神武天皇が亡くなった時大和で生ま
れた子供たちが20代に達していたか疑わしい。神武天皇の在位年数は
38年(二倍歴)や25年(三倍歴)でなく16年(干支だけ同じ)ではな
かろうか。これは綏靖天皇が14歳で皇太子に立てられた計算になるこ
ととよく合っている。

73: 日本@名無史さん 2017/01/21(土) 21:03:26.09
はい、ご都合主義

74: 日本@名無史さん 2017/01/21(土) 21:19:24.85
ただ崇神天皇の先代の開化天皇、その後の景行天皇、成務天皇から
60年を引いてしまうと在位ゼロ年になってしまう。先々代の孝元天皇
の在位年数も57年、垂仁天皇の在位年数は99年を39年に改めても長す
ぎる印象がある。開化天皇の場合、実際の寿命は111歳から60年を引い
て51歳、在位年数は二倍年暦で30年ぐらいにすればよいかもしれない。
崇神天皇は在位8年40歳ぐらいで亡くなったとすれば短命だったという
記述も頷ける。垂仁・景行はそれぞれ20年は在位しただろうと思う。
垂仁は40歳ぐらい、景行は50歳ぐらい、成務は30代、仲哀は20代半ば
ぐらいで亡くなったと思う。景行が東国、九州征伐の業績を残してから
神功皇后がクーデターを起こし応神が即位するまでそれほど年数が経って
いない感じがする。

75: 日本@名無史さん 2017/01/21(土) 21:28:26.83
日本書紀では継体天皇は17歳で安閑天皇を、18歳で宣化天皇を
儲けた計算になる。継体天皇の崩御年が古事記の527年(丁未の年)
でなくそれに7年を加えた534年(甲寅)だとすると、継体は50歳で
亡くなったことになる。日本書紀ではこの年が安閑天皇の元年で、
安閑は翌年535年、70歳で亡くなったとされているので、これに二倍歴を
適用すると35歳になるから、継体は485年生まれ、安閑は501年生まれになる。

76: YAP? 2017/01/22(日) 22:59:08.90
 要するに、記紀の何れの記事からも、日本独自の「倭暦」が存在し、それは『魏志倭人伝』の
春耕秋収を、倍暦と解釈すれば、卑弥呼の時代にも行われていたことになる。
記紀の記録を全面的に正しいとして、そのつじつま合わせに、倍暦どころか、3倍暦や4倍暦をも仮定する人もいるが、
私はそれこそ根拠の曖昧なご都合主義だと思う。
 S下肢、1年(トシ)=12月(ツキ)、一月(ツキ)=十四日(小の月)、十五日(大の月)という太陰暦の和暦の存在は
認められるべきだろう。辛酉革命説に拠り、神武紀元を遡及させた為、倍暦での年齢とも、大幅にずれが生じたのだと考えているが、正直、補正方が思い浮かばない。

77: 日本@名無史さん 2017/01/23(月) 00:06:17.60
国家の書いた書物なんだぞ。一年を二年と数える暦が使われていたのではなくて
年数をいじり回しての皇室の権威造作ぐらいやってると見ていいと思うが。

78: 日本@名無史さん 2017/01/23(月) 00:09:17.62
その皇室というのは何なの?

79: 日本@名無史さん 2017/01/23(月) 00:12:37.71
なぜそんな質問を?

80: ssn 2017/01/23(月) 01:14:36.50
どちらにしても、考古学的には、崇神天皇が4世紀初頭になる可能性が極めて高い。

この時期の干支は、古事記の方がはるかに信憑性が高いと思う。
古事記によると崇神の没年干支は「戊寅」

考古学と照合すれば、それは318年だろう。

81: 日本@名無史さん 2017/01/23(月) 02:41:58.01
仲哀天皇の没年干支は日本書紀の「庚辰」のほうが
信憑性が高い。それに合うのは380年だ。
応神天皇の時点で王朝が変わったという見方もあるがそれは置いておき、
神功皇后の摂政元年は381年で摂政期間は9~19年でないかと思う。
日本書紀編纂者は神功皇后が卑弥呼でないことぐらい百も承知で
180年も前の人物に設定した。そうなると神功に続き応神・仁徳・允恭も
史実より過去の人物とされ在位年数が伸びるのは当然のことだ。
60×3年分のズレを潰しまくってどこかで年代を正常にしなければならない。
継体天皇の即位年は526年頃だったがこれを20年前倒しし、彼が越前国で
青年期だったときの天皇、雄略天皇の在位期間を20年ほど前にずらしたことも
影響し、継体・安閑・宣化三天皇の寿命が伸びたのかもしれない。

85: ssn 2017/01/23(月) 12:25:02.09
>>81
>仲哀天皇の没年干支は日本書紀の「庚辰」のほうが
>信憑性が高い。それに合うのは380年だ

そうかな。仲哀なら、俺は古事記の壬戌(362)没が正しいと思う。

根拠は、崇神の前後である開化、垂仁、景行の没年干支が書かれていない。
書かれていないという事は「伝承できませんでした、すいません」と言ってる事だから、
じゃ、逆に没年干支が書かれてる崇神、成務、仲哀は正しいのだろうとなる。

一方、日本書紀はもう何が何でも書いてあるわけだから、
逆に信憑性が低いと思う。
古事記の方がよほど誠実だ。

というわけで日本書紀の応神元年390年までは考古学との整合性も出てきてるので、
信頼できると思うが、それ以前は信頼できない。

90: ssn 2017/01/25(水) 09:10:15.25
>>89

反正天皇あたりから古事記と日本書紀の干支が違ってきていますね。

特に応神以前からは大きく食い違いますね。

記と紀のどちらかが間違えてるという事ですね。
私は日本書紀だと思います。

理由は>>85にも書いたように、

「書かれていない」ということは「伝承できませんでした」という事で、
逆に誠実だと思うからです。

したがって崇神の没年干支が考古学と整合させて318年。

これ以前を遡るのは無理だと思います。

82: 日本@名無史さん 2017/01/23(月) 02:48:30.79
以前、このような書き込みがあったはず

「それで、墓荒らしは、終わったの?」

83: 日本@名無史さん 2017/01/23(月) 02:52:58.91
それと、このような書き込みとか
「他人の家の、お墓参りに行く人なんていないでしょ」

84: 日本@名無史さん 2017/01/23(月) 03:39:08.03
没年干支をうのみにするとはw

87: 日本@名無史さん 2017/01/24(火) 04:17:33.36
何も知らないんじゃないのか?『聖造』の人というのは何者だと思う

89: YAP? 2017/01/24(火) 22:52:14.08
 ssn>倍暦の話になると私にはチンプンカンプンですが、

 倍暦についても、安本美典、古田武彦氏ら、諸説がありますが、私が最も納得できたのは、
貝田禎造氏『古代天皇長寿の謎』(六興出版:昭和60年12月発行)です。
と言っても、全部に納得したわけではありませんが、倍暦の存在を認めざるを得ないと思いました。。
日付の入っている記事で、16日以降というものがほとんど存在しない、という事実と、
夏であるはずの季節にしばしば、雪の記事があることなどです。

 しかし氏の年代観に完全に同意は出来ず、継体天皇の即位年から、逆算して、神武天皇即位年を出そうと試みましたが、
どうも成功していません。
 一応、貝田氏の著書から、巻末の天皇の没年を記載します。
神武天皇:AD195年没
綏靖天王:AD204年没
安然天皇:AD213年没
懿徳天皇;AD222年没
孝昭天皇:AD242年没
孝安天皇:AD267年没
孝霊天皇:AD286年没
孝元天皇:DAD301年没
開化天皇:AD316年没
崇神天皇:AD333年没

 私は欠史8代の前半の天皇の没年が詰まり過ぎているのが、気になります。特に神武と綏靖の年代差が10年に満たないというのは、
おかしいと感じています。神武は、AD107年前後には、成人していたと思います。

91: ssn 2017/01/25(水) 09:15:37.58
YAP?さん

>>89
>神武天皇:AD195年没

おっw
今気づきました。

私の年代観と同じだ。

つまり卑弥呼と神武は同時代ということですね。

もはや卑弥呼は一人に絞られましたねw
その時代にヤマトに女王がいました。
ヒミコという名前に最も近い女王でした。

いかがですか?

92: 日本@名無史さん 2017/01/25(水) 10:06:46.25
紀年のない古事記になぜか崩年干支
しかも分注として後で書き加えられたものだ
書写のいつ誰が書き加えたのかも分からない
信憑性?どこにあるの

93: ssn 2017/01/25(水) 12:20:18.28
>>92
>しかも分注として後で書き加えられたものだ

書き加えて良いのなら、
開化、垂仁、景行の没年干支は何で古事記に書き加えなかったのだろう?

97: 日本@名無史さん 2017/01/25(水) 15:53:10.98
>>93
全ての天皇について書き加えなかったからといって正しいことにはならないが?

98: ssn 2017/01/25(水) 17:07:55.26
>>97
その理屈なら間違っているとも言えないよね。

94: 日本@名無史さん 2017/01/25(水) 13:20:40.27
崩年干支は真福寺本とか一部の写本にしかないからねえ
往年の歴史学の大家はだいたい否定的だよね

95: 日本@名無史さん 2017/01/25(水) 13:46:44.13
まあ崩年干支は神社伝承レベルだね
信じるも信じないもあなた次第

96: ssn 2017/01/25(水) 14:24:15.44
>>95
別に構わない。
考古学的に崇神が4世紀初頭である可能性が極めて高くなっている。

俺にとってはそれだけでいい。

99: 日本@名無史さん 2017/01/25(水) 17:10:07.90
>>95でいいと思ってるんだからしょうがないな

100: ssn 2017/01/27(金) 08:44:59.13
スサノオが実在した、などとは津田史学や、
その影響を受けた近代文献史学の人達には、
にわかに受け入れがたいことではあるだろう。

しかしだ。
2世紀前半の出雲の田和山遺跡からスズリの破片が発見された。
この時代に文字があったとは認めれない学者は、
このスズリをあくまで「権威の象徴」と言ってた。

ところが九州からもスズリの破片が発見された。

もう弥生時代に文字がないとは言えなくなった。

ではその文字で何を書いてたのか。
王統、王権に関わること、「官」しか考えられないではないか。

崇神が4世紀初頭である可能性が高い。
ならば神武、または神武以前の系譜もおおよそ正しい。

そしてスサノオも実在した。

彼こそが師升であった。

101: YAP? 2017/01/27(金) 23:03:10.74
 『古事記』の崩年(没年)干支や、或いは太歳年号と言ったものを、同艦がW手良いのか、正直な所判りません。
従って今の所は、記紀の「系譜部分」を基本的に信用する(時間との関係が切断されている神代の神々は徒然除く)
という考えで、記紀を解釈していryにが私の立場ですが、神武とその子綏靖の貝田氏説が、記紀の系譜を信じる以上、
整合的でない事は明らかです。
 神武・綏靖・安寧の初期3代が、没年が9年違い、というのは、生年に触れていない以上、生物学的にはあり得る話だが、
現実の親子孫3代では、神武の子のタギシミミ、キスミミの存在を考えると、成立し得ない話です。この辺りの貝田氏の論稿は記憶していないが、
或いは安本氏の古代天皇の平均在位年数約10年という説の影響を受けているのかもしれません。
 貝田氏の推定没年邑知、初期の3人に加え、4代懿徳天皇も、父の没後9年で死亡しており、以後の5代孝昭天王意向が、その父天皇よりも
15~25年後に死亡しているという、極めて生物学的に自然な状況と考えられるのと皮脂、
明らかに、神武・綏靖・安寧・懿徳4代は、一律9年刻みの死亡間隔と異常性を示しています。
 これは生物学的により自然な、20年程の没年の感覚を考えれば、懿徳天皇の没年AD222年を基準とすれば、
安寧天皇AD202年、綏靖天皇没年AD182年、神武天皇没年AD162年頃となります。
 実際には、タギシミミ、キスミミと綏靖が1世代差あったとも考えられるので、
神武天皇はAD150年頃に没し、タギシミミが義母を娶り、神武末年の子である綏靖天皇兄弟3人が
ほぼ成人に達し、異母兄を除いたと想定すべきでしょう。
 宋であれば、神武は,AD107年の倭国王帥升等の生口献上時には、既に生誕しており、この事件と
神武東征とが関係があると考える余地が出て来る。

102: ssn 2017/01/28(土) 05:30:28.20
なるほどYAP?さんの考えでは神武=帥升があり得るという事ですね。

記紀の神武の時代が、古く大きく引き伸ばされてる理由を、
日本の国史を「中華の属国でした」から始めるわけにはいかなかったので、
それゆえ、時代を大きく引き伸ばしごまかしたという事では納得できる説ですね。

もう、おそらくそれ以外に理由はなかろうと思います。

私は帥升=スサノオだと思ってます。
神武が実在なら、スサノオはほんの5世代前の人物ですから、
これを非実在にしてしまうのは無理があるような気がします。

結局、考古学的にも整合性がある4世紀初頭の崇神を基点に、
神武まで6世代と見るか(先代旧事本紀、中臣、鴨、三上祝などの系図)
記紀の通り9世代と見るかの違いですね。

私は6世代だと思います。
それで卑弥呼も解けますから。

104: YAP? 2017/01/29(日) 22:23:03.32
ssn>なるほどYAP?さんの考えでは、神武=帥升があり得るというという事ですね。

 いえ、そうではなく、「倭国王帥升等」の武闘・強硬派路線との政争に敗れた
南部九州勢力(東鯷人勢力:会稽郡に朝貢していた倭種の集団)との融和派であり、
自身も隼人クマソ系と婚姻していた神武を含めた京大が、北部九州から、同族の居た
近畿へと、い儒した、という考えです。
「倭国王帥升等」と「  」で囲んだのは、「帥升」(あるいは「師升」)なる人物が、
倭人諸国を代表する王であったのか?がまず議論されるべきだ、という意味合いからです。

 抑々、一国の国王が、自ら中国に赴いて、皇帝に拝謁する、というのは、海を隔てた日本列島の
状況からは考えにくい。しかも『等』という文字がある。帥升が王名であるならば、
複数の王が居たか、王とその臣下を同列視している記載になる。
 従って「倭国王」の「帥」(又は「師」)即ち軍事指揮官の「升」という使者らが、拝謁を願い出た、
都解釈すべきです。
 「帥」は『後漢書』その他に北方、東方の諸民族の酋長というか、「大帥」「小帥」
等と用例がみられるし、「師」は軍事用語でもあり、軍官wp意味した語彙と考えて良い。
 そうすると、死者の名が「升」だと言う事になる。
 これを「スサノヲ」とするのは無理がある、という考えです。

109: ssn 2017/01/30(月) 07:59:07.45
>>104
なるほどそうですか。
まぁ屁理屈言えば、当時の実質の王はアマテラスという女王だったわけですからねw
スサノオは軍事長官的な意味合いもあったかもしれません。

とはいえ、アマテラスなんて本当に実在なのかという話になりますからね。、

105: 日本@名無史さん 2017/01/29(日) 22:47:11.79
大丈夫です。今上天皇が150歳まで生きられるから今上の存在をもって神話の正当性、及び皇統の神秘性をすべて証明する生き証人になられる事であろう。

108: 日本@名無史さん 2017/01/30(月) 02:44:26.32
非国民スレは許さない

110: ssn 2017/01/30(月) 08:06:40.10
とはいえ、崇神が複数の考古学的痕跡から4世紀初頭である。

そして奈良盆地で環濠集落が終わり、
古墳時代になるという大変革がおきる2世紀末までおおよそ5~6世代。

崇神以前の5~6世代の人物は充分にその実在を想定してよいし、
欠史8代なんて言ってた津田史学はもはや昭和の遺物となりつつあります。

私は嬉しくて仕方がありません。
堂々と卑弥呼探しができるのですから。

そして見つけましたw

111: ssn 2017/01/30(月) 13:41:40.74
白村江の戦いで日本が勝っていたら記紀の編纂はなかった。

帝紀と旧事で充分であった。
帝紀と旧事には、おおよその実年から卑弥呼と師升が誰なのか書かれてたはず。

「我が国は卑弥呼と師升の時代、中華に朝貢してました。属国でした。
しかし、今、あの中華帝国に戦争で勝ちました。
すごいでしょ、日本は」

となってた。

勝ったことで精神的優位になれた。
まるで今の日本人が中国にコンプレックスを感じないのと同じ感覚だったでしょう。

しかし白村江の戦いで負けた。

卑弥呼や師升の時代、中華に朝貢していた上に、
さらに白村江の戦いでも負けた。

当時の日本人には精神的劣等感しかない。

そうなれば卑弥呼や師升の時代、中華に朝貢していた事実を隠すしかない。
そして大きくずらした。

それが100歳を超える天皇の記述になった。

そういう事でしょう。

112: YAP? 2017/02/02(木) 19:58:57.99
 記紀が日本御統治権を主張する根拠を、中国中原王朝(後漢、曹魏、劉宋以下南朝)に求めず、
北朝の後継者たる隋・唐とも、半島支配権をめぐって利害が対立したという時点で、
支配の正当性を中国とは絶縁し、自らの祖神に求めるという決断がなされたのでしょう。
この時点で、その支配者の起点をどこに置くかで、辛酉革命説を採用したことにより、
古代の大王=天皇の寿命と在位期間大幅な増加とその在位時期の遡及が決定したが、
一方で変えてはならないのは、大王の属する「宗族」即ち王族~皇族の祖先祭祀であり、
従って、その系譜からは、記紀編纂時の大王家とは無関係の大昔の大王は除かれた(省かれた)。
結果的に、応神以前は、単純な父子継承の形になった。しかし継体欽明皇統が前王統の
直系ではないことは、当時の近現代史年て、皆が認識していたから、応神王統については、
兄弟継承が記録された。
 時代の遡及には、和暦(倍暦)が中国の太陰太陽暦(元嘉暦、儀鳳暦)の2ばい8以上)となっているのを
利用したが、それでもBC660年には遡及させられない為、史官が何らかの机上操作を行った。
ついでに、複数大王制が存在していたのも、、圧殺し、唯一の大王(天王9しか存在しなかったという一時代一大王(天皇)
につじつま合わせをしたため、推古天皇の時代の男性男王が史書から抹殺され、
おかしなことになった。諸外国に対して倭国が外交を行うときは、単一の代表者名で対応したが、
国内的には、彼は必ずしも、唯一の王であったわけではなかった。

 そのように考えれば、日本の史書と中国の史書との矛盾は、解決される。

119: ssn 2017/02/05(日) 05:15:55.65
>>112

>ついでに、複数大王制が存在していたのも、、圧殺し、唯一の大王(天王9しか存在しなかったという一時代一大王(天皇)
につじつま合わせをしたため、推古天皇の時代の男性男王が史書から抹殺され、
おかしなことになった。諸外国に対して倭国が外交を行うときは、単一の代表者名で対応したが、
国内的には、彼は必ずしも、唯一の王であったわけではなかった。<


考古学的に言えば10代崇神が4世紀初頭であるのはほぼ確実でしょうね。

ではそれ以前、複数王であるかと言えば、そうではなくやはり単独の王がいたと思います。
その根拠ですが、大和盆地には弥生時代の複数の環濠集落がありました。
唐古・鍵遺跡、天理市平等坊・岩屋遺跡、桜井市芝遺跡、桜井市大福遺跡、橿原市四分遺跡、御所市鴨都波遺跡などです。

これらの環濠集落が弥生時代末に一斉に連動し、環濠が埋没、大量の土器が廃棄され、
やがて土師器が現れ、それが全国に一斉に広まります。
大和盆地全体が一斉に連動し、やがて日本全国に広がる文化があったということは、
奈良盆地に強力な一人の王がいた証拠です。

それが卑弥呼でしょう。
崇神からわずか5~6世代の話です。

もはや卑弥呼候補は一人しかいません。
イワレヒコという男も頭を下げたヒメタタライスズという姫様です。

113: 日本@名無史さん 2017/02/02(木) 20:43:26.99
辛酉革命とか言ってる時点で何も分かってないねw

114: 日本@名無史さん 2017/02/03(金) 07:29:14.72
日本の神話の一部だけをあげつらって日本を卑下するやつっておもろいね。
じゃあ、人間は神が作ったとかイブはアダムの肋骨からできたと書く聖書と
それを信仰する人たちをバカにしないのは何で?

血の雨を降らせた中国の神話をバカにしないのは何で?
ギリシャ神話のばかげた話をバカにしないのは何で?

どうして「日本神話の天皇が100歳を超える」ことだけを取り上げるの?
アダムの肋骨や蚩尤に比べたら、ささやかなお話だと思うけどなあ。
ねえ、なんで肋骨をばかにしないの?蚩尤をばかにしないの?
ねえ、どうして?

え?白人はすべて正しい?中国は中華の国ですべて正しい?
日本ごときがでたらめな神話で古い国家の起源を主張するんじゃねえよって?
100歳を超える天皇がいるから、日本の神話は全部でたらめで、天皇の皇統も
全部デタラメのでっち上げのはずだって?

肋骨やイエスが神の子は正しくて、日本神話はデタラメのでっち上げ?
蚩尤は正しくて、アマテラスはでっち上げ?

116: 日本@名無史さん 2017/02/03(金) 09:41:03.76
古墳の年代や七支刀や中国朝鮮の記録から総合的に見れば、神功皇后は四世紀後半に
活躍した人であり、427年頃に死んだ仁徳のばあさんであるから、矛盾はない。

仲哀は若死であり、親世代である成務も若死にである。
景行は長寿と考えられる。

成務が355年であるなら、景行は350年頃に60歳位で死んでおり、仲哀が362年頃に
30歳位で死んだのなら、矛盾はない。
両道入姫命の存在を考えると、また景行の時に皇位相続争いが見当たらないことも
見れば、垂仁は特別短命ではなく、どちらかと言えば長寿に近かったと考えられる。
それからすると、垂仁の時の争いは、崇神がそれほど長寿ではなかったことに
なるが、短命ともいい難い。

五代の天皇に使えたという伝承の武内宿禰が75歳まで長寿だったならば、400年頃に没し
325年頃に生まれており、18歳頃から数年間晩年の景行に仕えていることになり、
矛盾はない。70歳でも矛盾はない。

成務が死んだ時、ヤマトタケルはすでに死んでおり、成務とヤマトタケルは
それほど年が近かったとは思えないが、何故仲哀が後継者にされたのかよくわからない。
成務と同母の五百城入彦皇子もいたはずだが。

117: 日本@名無史さん 2017/02/03(金) 09:55:02.73
古代の天皇家って、男子が多かったように見えるね。
で、各地の豪族に婿入してるかんじ。
崇神以前は、絶対的な大王家だったようには見えないね。
丹波や近江の息長とか、そういうのと一緒に王族を作ってた感じ。

尾張の祖とか丹波の一族とか、まあどっちも同族みたいだけど、火明命の一族が
大きな勢力だったようにみえるわ。

118: 日本@名無史さん 2017/02/03(金) 10:01:40.23
海部家は、天皇家に仕えたことを誇るんじゃなくて、「うちこそが本家だ」と
なんで主張しないんだろうな。
そんなことをしたら暗殺される?まあ、そうかもわからんけどな。

九州へ行ってた天皇家よりも三代は早くに近畿に広がって、広大な土地を支配
していたように見えるけどな。
分家に乗っ取られたような感じがするわ。

120: ssn 2017/02/05(日) 05:18:03.77
訂正

×5~6世代の話です。

〇5~6世代前の話です。

121: 日本@名無史さん 2017/02/05(日) 07:03:03.33
このスレはレベル低いな

122: YAP? 2017/02/05(日) 20:13:32.45
 複数大王制については、よく言われるような「ヒメ・ヒコ」制などとは異なり
、上代日本語の「おほきみ」(大君)という語彙の考察や、諸外国の所領分割に
よる王国内の分立が、事例となります。
 フランク王国が分割相続であったのは有名であり、再統一したカロリンが朝
フランク王国が、たまたまローマ教皇の陰謀により、再興西ローマ帝国となったため、
カール大帝の3子による東西及び中部フランクとイタリアの3王国への分割が
、同一フランク王国内に3人の王が同時に存在する、という格好な事例になった筈が、
そのように見えなくなりました。
 ロシアのsyズダリ公国などでも国内にも「分領公」と呼ばれる存在が居ました。
彼らは、同じ国内でのほぼ同格の君主だったのです(多少の上下差はあるが、
基本的な相違はない)。それどころかメリヴィンガ朝フランク王国では
修道院にいる王族の女性が、「自分は王の従姉妹だから女王である」と
述べたという記録もあります。モンゴルの㈣汗国でも、大汗と多くの汗が存在し得ました。

 日本の上代でも、「おほきみ」(大君)は、「大王」を示すと同時に、男女の
王族を意味しました。 耳で聞く限り「オホキミ」と発音されても、それが
「大王」なのか「王族の誰かなのかは、区別できません。
 これは区別する必要性が本来なかったからだ、と考えるべきです。
ある行「おほきみ」(大君)とは、「臣」と「大臣」、「連」と「大連」と同様に、「公・君」に対する「大君」であり、
王族全員が基本的に共有する「カバネ(姓)のようなものだと考えれば、理解しやすい。
現実的には実際に統治者として権威を発揮し、権利を行使するのは、
その地域での最有力の者が一人でしょうが、そのような実態と、その王族の
「成員の基本的な正生得権」とは同時に存在し得た。

125: 41-42 2017/02/05(日) 21:32:58.63
古代天皇の年齢研究サイト
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage6.htm

長男は18歳ぐらいで生まれる(第4代懿徳天皇や第6代
孝安天皇のように兄の娘との間に次の天皇が生れた場合
は33歳ぐらい)間隔で、神武天皇以降の天皇の生没年と
活躍次期を推定している。家系図通りだと神武天皇即位
は西暦114年~116年、干支に拘ると121年のことになり、
神武天皇の没年齢は57歳になる。ただし同サイトは「欠史
八代の系譜矛盾」にも触れており、神武から崇神まで6世代
の可能性もあると述べている。天武天皇は舒明天皇が亡くな
って後の誕生で兄の天智天皇よりも姪の持統天皇と年が近か
ったとか継体天皇は実際は即位していなかったなどびっくり
仰天な主張もされている。子どもを作る年齢が異様に早い
と思うが興味がある方は覗いてほしい。

126: 41-42 2017/02/05(日) 21:36:11.80
4行目
✕活躍次期→〇活躍時期

134: 日本@名無史さん 2017/02/06(月) 23:32:13.86
神武天皇以来の万世一系も皇紀も信じる右翼は涙目だなw

135: 41-42 2017/02/07(火) 01:41:21.91
古代天皇の年齢研究サイト
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage6.htm

安康天皇以降の年齢も要修正だって。なぜなんだろう。
継体天皇の在位年数=清寧(5年)+顕宗(3年)+仁賢(11年)
+武烈(8年、大和を武力制圧した継体の傀儡として)+安閑1年

左は日本書紀などによる誕生年。→右はそれを修正した推定誕生年。
()内は没年齢。

履中:336年(70歳)、369年(64歳)→ 428年(38歳)
反正:378年(60歳)→ 432年(39歳)
允恭:377年?(78歳)→ 434年(47歳)
安康:401年(56歳)→ 457年(27歳)
雄略:418年(62歳)、366年(124歳)→ 463年(44歳)
清寧:444年?(41歳)→ 494年(18歳)
顕宗:450年?(38歳)→ 477年(38歳)
仁賢:449年?(50歳)→ 476年(50歳)
武烈:489年?(18歳)→ 514年(20歳)
継体:450年(82歳)→ 485年(50歳)
安閑:466年(70歳)→ 505年(31歳)
宣化:467年(73歳)→ 506年(34歳)
欽明:509年?(63歳)→ 527年(45歳)

140: ssn 2017/02/07(火) 09:09:44.24
>>135
面白そうなのですが、そのリンク見れないのです。

136: 41-42 2017/02/07(火) 01:51:21.16
やっぱり4世紀後期の神功皇后・応神天皇を実際より百数十年前の
人物に設定した結果、彼らより後の大王の在位年数や寿命が間延び
したんだろうね。それより前でも垂仁天皇の時代に新羅の王子が来
朝し天皇がその玄孫の世代まで生きる話があるが、新羅も建国年を
紀元前に繰り上げていたので、垂仁天皇の在位期間も紀元前と紀元
後をまたぐことになったとも考えられそうな。

神武の時代を古くしたことは結果的に対外的な箔付けにはなっただろうな。
100歳を超える天皇が多いのは記紀に残せなかった天皇の分を一代あたりの
在位年数を延ばして埋めることにしたとまあ考えられないこともないか。
でもそれだと天皇家が万世一系といえる保証はありませんと言ってるような
ものだな。

139: ssn 2017/02/07(火) 09:06:09.07
おい、ウンコ漏らし太朗。

おまえはアホスレに帰れ。
いまさら邪馬台国畿内説なんて当たり前なクソスレにな。

面白くもなんともない。

141: ssn 2017/02/07(火) 11:03:14.93
4世紀末から5世紀については、
倉西裕子さんのブログからですが、
この図が正しいのではないと思います。

no title

142: 日本@名無史さん 2017/02/17(金) 13:03:06.50
古事記の干支が、およそ矛盾がないな。
崇神の没年318年頃。
258年では早すぎる。
記紀の記事とは合うんだがな。

248年ごろに卑弥呼が死んで後継者争いが起き、崇神が勝つ。
崇神は卑弥呼の宗女を嫁にする(婿入する)

でも、やっぱり早すぎるな。

146: 日本@名無史さん 2017/02/17(金) 15:22:46.63
>>142

258年では早すぎるよ。
やはり318年だろうね。

応神が誉田御廟山である可能性は高いというかほぼ決まりなので、
文献史でも考古学でも390年元年だろう。

そうすると崇神まで遡ること4世代か5世代なので、
1世代20年弱として、
やはり崇神没は318年だろうね。

143: 日本@名無史さん 2017/02/17(金) 13:10:27.78
各地の古い神社の伝承では、神武以前の神様を祀っているのがある。
神武一家がヤマトに来なくても、すでに天神天孫が各地を治めている。

144: 日本@名無史さん 2017/02/17(金) 13:11:06.36
それで

そのテンノウというのは、
現在のテンノウになるの?

ワタナベ一系?

145: 日本@名無史さん 2017/02/17(金) 13:14:51.63
北斗の拳にもジャギというのがいるみたいだけど
何か関係がありそう

147: 日本@名無史さん 2017/02/20(月) 23:17:58.82
どうせ元々蛮族だった過去を闇に葬った北魏と一緒だろw
昔の鮮卑の歴史を書こうとした漢人が北魏皇室の怒りに触れて族滅されてるくらい蛮族だった歴史が恥なんだよ。

148: 日本@名無史さん 2017/03/02(木) 02:27:54.90
神武天皇から神功皇后まで15代(?世代)、
応神天皇から欽明天皇まで15代(7世代)なので

崇神天皇の崩御年を318年、応神天皇の即位年を390年
と見なすと、欽明天皇元年は540年なので、天皇が14人替
わるのに150年かかったことになる。神武天皇即位~仲哀
天皇崩御まで150年とすれば、神武天皇は卑弥呼と同時代
の人物であることになる。スレタイでは神武は卑弥呼の夫だが、
敵対していた狗奴国の男王(かその縁者)の可能性もあるのではないか。

149: ssn 2017/03/02(木) 05:45:56.47
>>148
>神武天皇は卑弥呼と同時代 の人物であることになる。

同意見ありがとう。
神武天皇の「天皇」とは7世紀の新称号。

つまりイワレヒコという男は、7世紀に新称号「天皇」格上げされたのだと思っている。
それは同時に、実際は女王であったヒメタタライスズの「皇后」への格下げでもある。

記紀編纂者は卑弥呼が誰か分かっていた。
同時に5世代前の帥升が誰かも分る。

卑弥呼(ヒメタタラ)→帥升(スサノオ)という朝貢2トップの存在は、
国史編纂にあたって隠さねばならない。

日本国の歴史を「中華への朝貢」「中華の属国」という事実から始めなければならないから。

150: ssn 2017/03/02(木) 05:56:07.10
だいたい神武が大王ならば、日向にヒメタタラを呼べばいい。
そして先妻のアヒラツ姫を后に、ヒメタタラを妃にすればいい。

実際はまったくそれとは正反対で、妻を置いて大和に向かうわけで、
その姿は、ヒメタタラこそが女王であった証拠だ。

女王は、男王と違って後宮に美男3千人ということはしない。
その代わり、複数の男から気に入った婿を選び、一定期間一緒に過ごす。
そうしないと生れてきた子が誰の子か分からないからだ。

神武の死後に、神武の連れ子のタギシミミがヒメタタラの婿になった。
この形態こそは、ヒメタタラが女王であった姿そのものだ。

152: 日本@名無史さん 2017/03/03(金) 06:32:13.50
最近そういう論調のものは良く見るけどな

155: 日本@名無史さん 2017/03/04(土) 03:59:35.34
>それは同時に、実際は女王であったヒメタタライスズの「皇后」への格下げでもある。

そもそも中国に朝貢したやつを格下げってのなら
素朴な疑問、倭の五王はどうなるんだ?

157: 日本@名無史さん 2017/03/04(土) 04:59:29.52
>>155
>そもそも中国に朝貢したやつを格下げってのなら
素朴な疑問、倭の五王はどうなるんだ?


その「どうなるんだ?」の意味が分からない。

記紀編纂のいちばん大きな理由は、中華への隷属の歴史の清算だろう。

推定80年くらいの時間差がある倭国王帥升と卑弥呼の朝貢2トップが誰か判明してたのなら、
これを大きくごまかすだろ。

だから神武東征をやたら強調し、
その時代を紀元前660年とかいう途方もない時代に設定したのだ。

160: 日本@名無史さん 2017/03/04(土) 05:34:11.33
本居宣長
「お前ら間違ってる。中国に朝貢したのは九州かどこかの酋長で
大和朝廷とは関係がないところだ」

164: 日本@名無史さん 2017/03/09(木) 09:16:53.23
3世紀、大和の葛城に【ヒメ】と【トヨ】がいました。
太古から続く出雲族のお二人でした。

これだけなら誰が見ても魏志の卑弥呼と台与だと分かります。
だから記紀では時代を大きくずらしました。

そうしないと【ヒメ】から5世代前のスサノオが倭国王・帥升だと分かってしまいます。

107年、後漢の安帝に謁見、見返り品がないという事はどうやら朝貢は失敗したようです。

白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
新生「日本」の歴史を、始祖スサノオのぶざまな朝貢の記述から始めるわけにはいきません。
だから記紀では時代を大きくずらしました。
国史とはプライドです。たとえ100歳を超えるおかしな年齢になろうともプライドを優先しました。

そして新称号を採用しました。「天皇・皇后」です。

【ヒメ】には婿がいました。
日向から来たイワレヒコという男です。
この男を新称号「天皇」に格上げし、カムヤマト・イワレヒコ・スメラミコトという大げさな名前にして、
この男の東征をやたら強調し、大王感を演出、初代天皇としました。

そして【ヒメ】を新称号「皇后」に格下げし、母方の称号タタラと妹のイスズを付け足し、
ヒメタタライスズとしました。
  
  【トヨ】にも婿がいました。スキトモと言います。
このスキトモもオオヤマトヒコ・スキトモノ・スメラミコトという大げさな名前にし、大王感を演出しました。
  また大王たるもの、周りに複数の女性がいないと不自然なので、
泉媛、飯日媛、賦登麻和訶比売命など、とっくに途絶えていた磯城氏の娘を后とし、大王感を演出しました。
【トヨ】はアマトヨツとされ、4代皇后に格下げされました。

166: 165 2017/03/10(金) 20:09:49.34
>纏向遺跡の吉備・東瀬戸内(筑紫も)の要素が何なのか答えて見ろ。

まずはこれ↑
このアホが毎度毎度必死に鬼の首でもとったかのようにほざいてる台詞

「要素が何なのか?」と聞かれりゃ
「要素は要素、それ以上のものではない」と答えるしかないな

このアホが根本的に理解してないのは
要素なんてものは単なる文化の伝播で説明が付く
東征だか東遷を言いたけりゃそれ以上のものを出す必要があるのは
それを主張する側だ

「共通の要素がある」…なんてのは”必要条件”に過ぎない(それすらないなら話にならない)
が、それがあれば東遷説が証明できる”十分条件”ではない

「要素」なんて所詮全体ではないから「要素」

征服劇があったというのならそんな文化の伝播の範疇に収まらないものをもってくるのは当然
共通の要素があるなんてスタートラインに立っただけにすぎない

こんな小中学生が理解できるようなことすらこのアホ爺は分かってない

167: 165 2017/03/10(金) 20:13:15.39
>↑寂れてはいるが、みな九州にそんざいを谷川健一氏、鳥越憲三郎氏が確認ずみ

これも以前に言ったがそれぞれの年代はいつなんだ?というお話

そもそも九州の物部なんか
元々磐井の乱平定で継体から
「九州はお前の好きにしろ」
と言われ平定後入植したのかも決着付いてなかったと思うが
特にこのアホがほざくような話だと年代は2・3世紀にまで遡らなければならない

無論各地域に血縁集団はいただろうが文字も普及したなかった2・3世紀に
そんな広範囲に自分達は同じ氏族だという認識を持った氏族がいたなんて証明できたら
古代史なんて根底からひっくり返ってる

それどころか畿内説スレでも自分が振った話だが
弥生集落で一見大型集落と見えるものでも実は複数の集団の言わば
「寄り合い所帯」のようなものであったという見方まで出てきてる

2・3世紀にそんな巨大氏族がいたなんて事自体荒唐無稽レベルなお話

谷川健一だの鳥越憲三郎が言ったから今じゃあそういう認識にでもなってるのか?アホ

168: 165 2017/03/10(金) 20:16:50.05
>ところが碩学・上田正昭さんは復権を言ってたね。
>さぁどうする?

どうもしない
これも「それが何?」ってだけの話

このアホの芸風(というかこの手のアホのパターンだが)
自分の言うことに沿わない学者連中は

>学者として失格です。

とほざいておいて
我が意を得たりとホルホルして飛びついた学者は
「寺沢ガー」「上田ガー」とか持ち上げる
都合の良いときだけ虎の威を借るクズのクズ

無論学者の意見・説を借りるのはかまわない
(自分も含め)素人の掲示板の書き込みなんてほぼそれで成り立ってる
が、この手のアホはその学者のネームバリューに頼る卑屈な権威主義者
そんなハッタリが効くのはクズ(九州)説のようなアホ連中だけ

まともな畿内説の連中なら
例えば小林や佐原と言った学者の説だって今じゃ通用しない
淘汰されたものも多々あるなんてことは当然知ってる
ジャンルにかかわらずビッグネームで納得するなんてのは
およそ学術においてアホの極み

そういうところもこのトンスル馬鹿がクズのクズたる所以
自分に都合のいいところだけつまみ食いしてホルホルするのは
zarakokuとか言うキチガイジジイと同じ穴の狢

170: 日本@名無史さん 2017/03/16(木) 07:07:47.62
①神武→ヒメタタライスズヒメ
②綏靖 →イスズヨリヒメノミコト  生きてた「ヒメ」タタラが女王
③安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト   生きてた「ヒメ」タタラが女王
④懿徳→アマトヨツヒメノミコト
⑤孝昭→ヨソタラシヒメノミコト    生きてたアマ「トヨ」ツが女王
⑥孝安→オシヒメ        生きてたアマ「トヨ」ツが女王

見事にヒメとトヨの時代です。

そして孝霊には複数の后がいます。
実質の男王は孝霊の時代からでしょう。
それは箸墓古墳の時代になります。

171: 日本@名無史さん 2017/03/16(木) 07:14:16.63
>>165-168

sageながらほざくなw

おまえはまるっきし吉備・東瀬戸内の墓制である纏向を、
吉備・東瀬戸内人の大和入りであることさえ認めれない小心者w

卑弥呼は、彼ら吉備・東瀬戸内人の大和入り以前の先住系が擁立。
「其の国」は2世紀前半から存在してるだろ。

卑弥呼を擁立した部族「クラン」は一つしかない。
先住出雲系だ。

まだ分からないのか、このボ ケwww

172: 日本@名無史さん 2017/03/16(木) 19:03:24.55
以下畿内説スレでの話だがこっちで答えておく
どうせアホは同じことしか言ってないんだしw

>はいはい、楽な言い方だねw

楽な言い方?
そうそんな程度で一蹴できるのがお前のアホ理論だよド低脳爺www

>行く先々のどんな墓制でも取り入れるから

と言うのはまさしく東遷説のアホ理論
この場合瀬戸内東部外の要素が出てきても
「行く先々のどんな墓制でも取り入れるから」
で済ませるパターン

そもそも「吉備東瀬戸内の墓制」と言ってる時点で東遷説として馬鹿丸出し
A→B …という移動があったというのならそりゃスタート地点のAもピンポイントで絞り込むのが筋
「~地域と」としか言えないのが「文化の伝播」の範疇で終わる証左だな
気づきなさいアホ爺さんw

そもそもこのアホの与太話なら王様は九州からやってきたのだから
その本命の九州にピンポイントでA点を探しB点と同じものがあって
それが伝播の範疇に収まらないということを証明して初めて成り立つ話だが
このアホはとにかく要素として取り入れられてたら己の与太が成り立つとホルホルしてるアホ

「吉備・東瀬戸内人の大和入り」なんてそりゃミクロな人の出入りなんてあったろうが
それがこのアホのほざく先代旧事本紀のメンツだったなんて根拠何処にもない

毎度毎度同じことを繰り返して叩かれてヒステリー起こして
ヤフーから2ちゃんに逃げてきたアホ爺がこのトンスル東遷厨(ssn)とzarakokuの基地害ジジイ

173: 日本@名無史さん 2017/03/17(金) 00:53:08.88
ちなみにこのトンスル爺が鬼首モノではしゃいでる
吉備の特殊器台にしても

近藤なんかはそれを首長間の擬制的同祖同族関係を結ぶツールとして解釈してる
多分この解釈が今日一番有力だろう

少なくともそれで東遷の証なんて言ってる学者を俺は知らない
(まあ世の中広いんだし一人や二人いるかも知れんがw)

175: 日本@名無史さん 2017/03/17(金) 05:22:39.92
>>173
>近藤なんかはそれを首長間の擬制的同祖同族関係を結ぶツールとして解釈してる
多分この解釈が今日一番有力だろう

ではそれを受け入れた大和の首長って誰?
「其の国」は2世紀前半から存在するよね?

誰?

174: 日本@名無史さん 2017/03/17(金) 05:19:44.66
またsageながらほざいとるw

楯築遺跡の双方中円という形の最終最大墳墓が、
崇神天皇陵・行燈山古墳にべったりへばりつく櫛山古墳だ。

これはどういうことだ?
おまえは説明できないだろw

偉い先生の言う事の受け売りばっかりしてるから想像力ゼロw

吉備・瀬戸内勢力が3世紀第3四半期の箸墓時代に実権を握ったのだ。
それが崇神の外威だ。
崇神時代の外威って誰だ?

まぁおまえに聞いても仕方ない、クロスナ層でも見続けて一生を終われ。

176: 日本@名無史さん 2017/03/17(金) 05:35:04.32
纏向って完全に新参勢力じゃんw
ワロタw

no title


誰なんだろうね、この新参勢力は?ニヤニヤ

177: 日本@名無史さん 2017/03/17(金) 06:15:16.10
--------(銅鐸)---------卑弥呼-台与

             ..........箸墓・・崇神(垂仁)景行

台与の治世が終わる頃に磯城の箸墓古墳に権力移動。

おそらく台与に子供ができなかったのかもしれない。

178: 日本@名無史さん 2017/03/18(土) 02:56:41.40
半年で1つ歳とるって説もしるよなぁ

179: 日本@名無史さん 2017/03/18(土) 06:50:11.23
崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するように妃のいない天皇たちがいる。
神武から孝安までだ。彼らが大王ならその血を残すために複数の后がいて当たり前。
つまり彼らは大王ではなかった。

では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。
その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
それがいるのだ。


①神武→ヒメタタライスズヒメ
②綏靖 →イスズヨリヒメノミコト  生きてた「ヒメ」タタラが女王
③安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト   生きてた「ヒメ」タタラが女王
④懿徳→アマトヨツヒメノミコト
⑤孝昭→ヨソタラシヒメノミコト    生きてたアマ「トヨ」ツが女王
⑥孝安→オシヒメ        生きてたアマ「トヨ」ツが女王

見事にヒメとトヨの時代。

そして7代孝霊には複数の妃。
実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。

邪馬台国とはヒミコこと「ヒメ」タタラが住んだ奈良県御所市である。
纏向に卑弥呼はいない。

186: 41-42 2017/04/01(土) 10:24:48.92
>>179
確かに七代孝霊からが男王の時代かもしれないね。
后妃を複数人置き、子女の記録が詳しくなってくる。

日本書紀では初代神武から三代安寧までの皇后は
事代主神の血を引く女性。四代懿徳の皇后は懿徳
の姪だが、事代主神の玄孫と見ることも可能。
彼らの先祖は神話の中では出雲の神に対して国譲りを
強要しておきながら、現実の世界では出雲族の女性しか
妻にできなかったようだ。もし天皇家が初代から絶大な権力
を持っていれば出雲系以外の豪族からも妃をもらっていたはず。
国譲りなんてウソ、実は初期の天皇は出雲に頭が上がらなかった
ということか…。

四代懿徳と六代孝安については昔は叔父と姪の結婚ぐらい
当たり前だろうという意見もあるかもしれないが、逆に姪御さんしか
嫁さんに迎えられない、子どもが一人、二人しかいないという
初期天皇家の状況は、彼らがたいして権力を持っていなかったことを
暗示しているのかもしれない(家系図、世代数が事実と合うかどうかは
また別問題です)。

187: 日本@名無史さん 2017/04/01(土) 14:24:38.03
>>186
>彼らの先祖は神話の中では出雲の神に対して国譲りを
強要しておきながら、

というか、出雲の加茂岩倉遺跡と同型の銅鐸が奈良の上牧や大阪の陶邑に出る。
他にも淡路島や和歌山、兵庫にも出るようだ。
陶邑はあのオオタタネコの出身地。

オオタタネコも初代皇后ヒメタタライスズも鴨族・鴨氏。

カモ岩倉→カモ氏

そして安寧の后は鴨王の娘。

つまり卑弥呼や台与の時代まで出雲系葛城王朝であり、神武はその王朝に婿入りした人物であろう。

180: 日本@名無史さん 2017/03/18(土) 08:18:23.58
中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸(共同)右日本の銅鐸(弥生時代)

『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、
原始的な磁器の鐸が見つかった。
南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、
日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。
中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12~18センチの鐘型。
肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、
鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。

同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は
上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。
日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、
長江(揚子江)下流域の呉(?~紀元前473)と越(?~紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、
実際に中国で出土したのは今回がはじめて。
楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、
日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。』
2006年3月7日付の朝日新聞

182: 日本@名無史さん 2017/03/29(水) 20:36:33.36
だから何度も言ってるように
在日韓国人は日本の掲示板に書き込んではいけない
本国でやりなさい
いくらなんでも白村江の戦いの時代は天智天皇の時代
それをスサノオと混同するような日本人は一人も居ない
半島に帰りなさい

185: ssn 2017/03/30(木) 11:06:44.61
>>182

スレ主だが何を言ってるのか理解できない。
私はスサノオを2世紀初頭に実在した帥升だと思っている。
そしてそれ以降の人物も実在したと思っている。

記紀編纂にあたって、
土下座朝貢した人物を始祖とは書けなかったから。時代を大きくずらした、
そう思っている。


それが天皇が古代天皇が100歳を超える理由だと思っている。

私のHP
「妃のいない大王」
https://o-yan216.wixsite.com/mysite

183: 日本@名無史さん 2017/03/29(水) 20:43:41.71
なぜ嘘つき民進党は息を吐くように嘘を付くのか
過去は知らんが、今起こってる事実民進党さん
今辻元が起こってるよ、祭じゃー

184: 日本@名無史さん 2017/03/29(水) 21:38:11.14
スサノオのモデルに相当した人物がいたのかはともかく
スレ主は白村江の戦をスサノオが生きてたときにあった
こととは言ってないぞ。しかも後からの権威付けとは断ってるが
神武や欠史八代の天皇のモデルの実在じたいは認めている。
在日韓国人は普通神武や欠史八代そのものを捏造と認定する。

190: 日本@名無史さん 2017/04/01(土) 15:08:27.79
それで?
今後、戦争が起きたとしよう
その神というのが出現して、一緒に戦闘でもするの

それとも、
助けてください 助けてくださいと唱えているだけなの?

191: 41-42 2017/04/01(土) 19:43:37.60
井上光貞や安本美典は3世紀後期(280年頃?)に九州から
大和に攻め入った勢力があり、それが神武天皇の東征のモデル
になっている、あるいは神武の東征とは崇神の東征のことだ
と述べる学者もいるけど、もしかしたら東征してきたのは
孝霊という可能性もあるのではないか?つまり出雲系王朝
に婿入りした神武とは赤の他人が大和に侵略してきて古墳群を作った。
銅鐸が破壊された形で出土したりまるで打ち捨てられたかのよう
に山麓から出てきたりすることがしばしば和辻哲郎らの大和朝廷
北九州起源説の論拠にもなっているが、北九州から攻め込んできた
新興勢力が、葛城王朝のシンボルである銅鐸を破壊した可能性もある
のではないか?前王朝を支持する勢力が激しく抵抗したので、
彼らを手なづけるのに孝霊から3代後の崇神の時代までかかった。
崇神が天照大神と倭大国魂神(大国玉神は大国主神の異称)をうまく
祀れなかったのも、大田田根子を探し求めたのも崇神が葛城王朝
の血筋でないよそ者だったからでないかと思うのだが、考えすぎかな?

192: 日本@名無史さん 2017/04/02(日) 07:25:51.89
>>191
>もしかしたら東征してきたのは
孝霊という可能性もあるのではないか?つまり出雲系王朝
に婿入りした神武とは赤の他人が大和に侵略してきて古墳群を作った。

そう考えたこともあったが、ならば纏向石塚~ホケノと同じ前方後円墳になるからね。
もっとも箸墓古墳は考古学者の北条氏によると従来(纏向石塚~ホケノ)と違って讃岐型の墳形らしいが。

やはり台与に子供ができなかったか何かで、ここぞとばかりに新興勢力側がうまく自分の子を大王位に就かせたのではないかな。
いわゆる女子力。

194: 日本@名無史さん 2017/04/13(木) 23:16:10.03
巫女は生涯独身だろう

196: 日本@名無史さん 2017/04/15(土) 21:25:34.51
>>194
女王は複数の男の中から気に入った男を選べる特典が付いてます。

195: 日本@名無史さん 2017/04/15(土) 16:05:42.67
故神武天皇は西暦元年に即位か

197: 日本@名無史さん 2017/04/16(日) 00:10:37.65
卑弥呼や台与が複数の男と子どもを作った可能性は
ありますか?

198: 日本@名無史さん 2017/04/16(日) 09:16:28.07
>>197
「歳がすでに長大 夫はいない」
としか書かれてないのに、
生涯未婚であるとか、子供がいないとか解釈してたのが間違い。

「歳がすでに長大 夫はいない」以上でも以下でもない。

199: 日本@名無史さん 2017/04/16(日) 16:11:37.04
たしかに生涯未婚だった可能性が高い、とか子供がいない可能性が高いというレベルであって
断定は出来ないな

200: 日本@名無史さん 2017/04/19(水) 08:39:28.36
wikiの「卑弥呼」にヒメタタライスズヒメ説を編入させてもらいました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%E5%BC%A5%E5%BC

まぁ後はどうなるか、分かりませんが

201: 日本@名無史さん 2017/04/26(水) 02:00:37.22
スサノオ(帥升)から12世代遡ってアメノミナカヌシ
に相当する人物も実在したのかな?わが国初の支配者?

203: 日本@名無史さん 2017/04/30(日) 10:54:49.39
>>201
初の支配者は猿山のボスザルかと

204: 日本@名無史さん 2017/05/06(土) 01:57:01.27
>>201
タカミムスビは葛城にいた高天彦がモデルだと思う。
アメノミナカヌシは分らん。

202: 日本@名無史さん 2017/04/29(土) 23:33:38.84
帥升から12世代前、およそ300年ほど遡ると紀元前の話になるな
徐福の渡来伝説と関係ありそうな 確証はないが

205: 日本@名無史さん 2017/05/06(土) 05:11:18.63
高天原は、今では高天ヶ原と呼ぶが、昔は高天の原と呼んだ。
以上のことから、高天+原の造語。

おそらく、高天という地名があり、その原野のことを高天原といったんだろう。

この高天がどこにあったのか?というと
それは、高野山(たかのやま)と天野山(あまのやま)の山間の地域の名前だった。
両者の名前からとって、高天(たかあま→たかま)といわれていた。
現在は御所市にその地名が残っている。

207: 日本@名無史さん 2017/05/06(土) 13:40:13.95
>>205
まったく賛成。
高天原は九州にはない。

神武にハク付けするために高天原を九州に設定した。

206: 日本@名無史さん 2017/05/06(土) 06:18:31.07
これはひどいw

208: 日本@名無史さん 2017/05/06(土) 14:07:38.13
記紀編纂者にとって、新生日本国の国史を中華皇帝・安帝への土下座(帥升)から始めるわけにはいかない。
したがって時代を古く大きくごまかした。

帥升と卑弥呼はおおよそ5世代離れている。
卑弥呼が誰なのか分かられると帥升も判明されてしまう。

これは避けねばならない。

彼らは神功皇后を強引に120年ずらし卑弥呼の時代にあてた。
もちろん時代的に神功皇后が卑弥呼であるはずはない。
しかし神功皇后が卑弥呼だと思ってくれる人がいれば、記紀編纂者にとってはこれ幸いなのである。

また彼らは卑弥呼墓と大きさが合う箸墓古墳とモモソ媛の関係を、日本書紀に取ってつけたように挿入した。
モモソ媛が卑弥呼だと思ってくれる人がいれば、記紀編纂者にとってはこれ幸いなのである。

また彼らはアマテラスをスサノオの姉に設定した。
スサノオは弟になり卑弥呼の男弟に相当することになる。
アマテラスが卑弥呼だと思ってくれる人がいれば、記紀編纂者にとってはこれ幸いなのである。

彼らは、将来、卑弥呼の比定を神功皇后、モモソ媛、アマテラスと間違えてくれと願い、
それを期待して記紀を編纂したのだろう。

おそろしく頭がいい。

210: 日本@名無史さん 2017/05/07(日) 00:26:51.57
>アマテラスが卑弥呼だと思ってくれる人がいれば

これはさすがにないだろう。卑弥呼がいつの時代の人物か
は中国に知られている以上、神武が卑弥呼の五世孫だと
神武は記紀編纂からせいぜい400年前の人物になってしまい
中国に対して王朝の古さが誇れないので記紀編纂者にとって
都合が悪い。やっぱり卑弥呼を神功皇后と思ってもらうのが
目的だよ。


それと文献上、瓊瓊杵尊は天すなわち空の上から日向の山に
降りたと解釈すべきであって、高天原が実際には地上のどこか
は重要ではない。

212: 日本@名無史さん 2017/05/07(日) 10:33:33.58
>>210
>>アマテラスが卑弥呼だと思ってくれる人がいれば

>これはさすがにないだろう。


でもアマテラスだと思ってる人はかなりいるぜw
九州説の最有力候補なんだだもんw

215: 日本@名無史さん 2017/05/17(水) 18:07:22.75
>>212
一部の人の意見を全体の意見のように語るんじゃないよ
朝日かよ

216: 日本@名無史さん 2017/05/18(木) 11:52:48.37
>>212
イミフ

217: 日本@名無史さん 2017/05/18(木) 11:53:28.17
間違えた

>>216
イミフ

211: 日本@名無史さん 2017/05/07(日) 00:45:06.33
天皇の諡号にも意味がありそうだな。神武の武は後漢の光武帝の武、
安寧もしくは孝安の安は安帝の安、孝霊の霊は霊帝の霊とすると、
モモソ媛すなわち卑弥呼の頃に即位した男王が崇神ということになり、
日本の建国は西暦1世紀だみたいに思った人もいただろう。

213: 日本@名無史さん 2017/05/07(日) 10:44:44.38
推定3世紀大王譜

神武    「ヒメ」タタライスズ
綏靖    「ヒメ」タタライスズ
安寧    「ヒメ」タタライスズ
懿徳 孝昭  アマ「トヨ」ツ
孝安 孝霊 ​ アマ「トヨ」ツ
孝元 開化
崇神

見事な卑弥呼と台与

https://o-yan216.wixsite.com/mysite

214: 日本@名無史さん 2017/05/17(水) 16:54:25.46
神産日神かみむすびのかみ
高御産日神たかみむすびのかみ
玉積産日神たまつめむすびのかみ
生産日神いくむすびのかみ
足産日神たるむすびのかみ
大宮売神おおみやのめのかみ
御食津神みけつかみ
事代主神ことしろぬしのかみ